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テヴィスカップの紹介
エンデュランスとは? テヴィスカップ参加の様子

「テヴィス・カップ100マイル・ワン・デイ・ライドは、世界で最も困難なエンデュランス・ライドだ。ゴールに到達することよりも、スタート地点に立つことのほうが、大胆な勇気を必要とする。スタートラインに立ったとき、そこには感動とともに、恐れがある」
ハル・ホール


24時間以内に100マイルを走破するという、人間と馬が限界に挑戦するようなレースだった。走るコースは、かつてゴールド・ラッシュに沸いた西部開拓時のルート。開拓民が苦闘して渡った荒涼とした原野や、シエラネバダ山脈の険しい峰々を馬とともに駆け抜けるライダーたち。それが、世界で最も過酷だと言われている長距離耐久乗馬レースの最高峰『テヴィス・カップ・ライド』だ。
そもそもテヴィス・カップ・ライド(Tevis Cup Ride)というのは通称で、正式名称はウェスタン・ステイツ・ワン・ハンドレッド・マイルズ・ワン・デイ・ライド(Western States Ride)という。トレイルと呼ばれるそのコースは、かつてアメリカ西部の先住民や砂金堀りで一攫千金を狙う者たちが通い、西部開拓時代には交通の要となっていた旧街道のような道だ。そのトレイルを、丸一日かけて100マイル走り抜くという乗馬の長距離耐久レースがテヴィス・カップ・ライドだった。このテヴィスをはじめ、大自然のトレイルを走る長距離乗馬レースのことを「エンデュランス・ライド」と言い、もちろん順位を競う競技なのだが、「レース」ではなく「ライド」と呼ばれていた。それは、「To finish is to win(完走こそが、勝利である)」という哲学からきている。
 馬術競技の一種であるエンデュランス・ライドとは、50マイル以上(80キロメートル以上)の距離を、一人のライダーと一頭の馬で走り完走を目指す競技だ。最も短い時間で完走した選手が優勝となるが、その条件として獣医が定める「馬がライドを続行することができるほど体調が良い」という基準を満たしていなければならないのが最大の特徴だろう。  というのも、ライドのコース上にはチェック・ポイントが数カ所あり、各所では獣医による馬体検査、通称「ベトチェック」を受けなければならないのだ。 ベトとは獣医(Veterinarian)のことである。ベトチェックにより馬の怪我や体調不良、もしくは代謝機能などがライド続行に不的確であると診断された場合には、その時点で失格となってしまう。ライダーは馬を速く走らせて完走を目指すだけではなく、馬の体調にも気を配らなければならないのだ。それが単純な「レース」ではなく「ライド」と言われる所以でもあろう。またライドの距離やコースによって、数十分から一時間の「ホールドタイム」という強制的な休憩時間が設けられている。
 テヴィス・カップの起源は、カリフォルニア州での金鉱発見にまで遡る。1849年に金が発見されて以来、一攫千金を夢見る砂金堀りたちを乗せた15000台以上の幌馬車がミズーリ州からカリフォルニアへと向かった。そのルートは、ミズーリからネバダ州のトラッキー川まで不毛の平野と砂漠を突っ切り、シエラネバダ山脈の峻険な峰々を越え、深い峪と鬱蒼とした森を抜け、金鉱が発見されゴールド・ラッシュの舞台となったカリフォルニア州オーバーンへと続く道だ。
 ゴールド・ラッシュに沸くオーバーンは急激に人口が増加し、1861年にはポニー・エクスプレスが開業。ミズーリからサクラメントにいたる全長3000キロメートル余のトレイルには190余りの駅が設置され、各駅を結ぶ駿馬が、たった10日間で郵便物を運んでいたという。やがてネバダ州のカムストックで銀鉱脈が発見されると、このウェスタン・ステイツ・トレイルは、ネバダ州北部とゴールド・ラッシュで急発展中のカリフォルニアの町々を結ぶ重要なルートとなった。
 しかし、切り立った断崖の続くシエラネバダ山脈越えのトレイルには、人間の侵入を一切拒絶するかのような厳しい自然が待ち受けていた。それは老人や子供はもちろん、頑強な大人たちにさえ通過を断念させるほどの難所であり、途中で幌馬車が壊れても、馬や牛が死んでも、水や食料が底をついても耐え抜ける者しか行き来することの出来ない熾烈なルートだった。生命を落とす旅人も少なくなかったという、まさに命懸けの過酷な旅だったのである。
 時代を経て1860年代にアメリカの東海岸と西海岸とを結ぶ大陸横断鉄道が貫通すると、ウェスタン・ステイツ・トレイルは次第に使われることもなくなっていった。西部開拓時代の貴重な史跡とも言うべきトレイル・ルートは、多くの人々の記憶から消え去ろうとしていた。しかし1931年になると、ホースマンとして有名だったカリフォルニア州タホ市のロバート・モンゴメリー・ワトソンが、政府からウェスタン・ステイツ・トレイルのルートをあらためて調査・確認する作業を任された。責任者となったワトソンは、同年9月、応援に来た関係者とともにオーバーンからタホ湖にいたる全ルートを確認し、トレイル・ルートに印をつける作業を完了。かつてのウェスタン・ステイツ・トレイルが見事に復活し、にわかに脚光を浴びた。これにより現在のエンデュランス・ライダーはもちろん、ハイカーや観光客まで、風光明媚なトレイル・ルートで西部開拓時代の過去へとタイムトラベルを楽しむことができるようになったのである。
 シエラネバダ山脈の尾根には、ウェスタン・ステイツ・トレイルで最も高所に位置する標高8700フィートのエミグラント・パスという頂がある。のちにテヴィス・カップ・ライドとなるイベントの創設者たちは、1931年にワトソンが踏査の際に山頂に建立した花崗岩のモニュメントの前で記念撮影をしている。写真を撮影したのは、オーバーンからワトソンの応援に駆けつけた関係者の一人、ウェンデル・ロビーだった。

 1955年8月7日、午前5時。ウェンデル・ロビーを含む5人のライダーが切手を貼った郵便物を携え、タホ市を出発した。目指すは100マイル先の町オーバーン。コースの途中では、馬の体力を証明するために獣医による馬体の健康チェックしてもらいながら、彼らは走り続けた。スコー・バレーを抜け、シエラネバダ山脈を越え、コマンチ・ムーンと呼ばれる満月の夜が明けた翌朝4時21分、4人のライダーは無事オーバーンに到着。町の郵便局で持参した郵便物に消印を押してもらい、完走の証明とした。これがテヴィス・カップ・ライドの始まりとなったのである。
 翌1956年には早くも出走者が20人に増え、3人の女性ライダーも参加。彼女たちは全員完走という快挙を成し遂げた。1959年になると、1位でゴールし、なおかつ馬の体調も優良だったライダーに、ウェルズ・ファーゴ社の社長ロイド・テヴィス氏が優勝杯を寄贈するようになった。以来、このライドは一般にテヴィス・カップと呼び親しまれるようになる。1961年には女性ライダーが初めて優勝杯を獲得。1964年からは、トップ10位以内でゴールした馬のなかから最も体調の良い馬を選び、ベスト・コンディション・ホース賞として「ハギン・カップ」が贈呈されるようになった。これはテヴィス氏のビジネス・パートナーであるアリ・ハギン氏が寄贈したことから命名された賞だ。

 1955年にたった5人で始まった小さなライドが、10年も経たないうちに出場選手が1000人を超えるほどの大きな大会になった。やがてこのライドは人馬双方の肉体的、精神的な強靱さ、スタミナ、乗馬の技術、知識、経験への挑戦、つまりホースマン・シップが試される究極の試金石たるライドとなった。いまや、その最高の栄誉であるテヴィス・カップの優勝杯を賭けて、本国のアメリカはもちろん、世界各国の馬主やライダーたちが集まり、険しいシエラネバダ山脈を縫うように走る過酷なエンデュランス・ライドを競い合う。
 毎年7月下旬から8月の間で、夜空に浮かぶ月がコマンチ・ムーンと呼ばれる満月となって輝く土曜日に、テヴィス・カップ・ライドは開催される。

 スタート地点はカリフォルニア州トラッキー市の南に位置するロビー・パークで、標高は7200フィート(2195メートル)。スタートして約9マイル下るとトラッキー川に達し、スコー・バレーを通り抜ける。ここは1960年に冬季オリンピックが開催された場所として知られ、現在、アメリカ合衆国オリンピックチームのトレーニング施設がある。標高6200フィート(1890メートル)の谷底まで下ると、次はワトソン・モニュメントのある標高8750フィート(2668メートル)のエミグラント・パスの山頂まで峻烈な登りとなる。距離にして4.5マイル(約7.2キロメートル)の間に、2500フィート(762メートル)を登る、シエラネバダ山脈で最大の難関だ。
 エミグラント・パスからは、かつて1850年代に金鉱・銀鉱の鉱夫たちが使っていたトレイルを辿ることになる。遙かゴール地点のオーバーンに到着するまで、さらに15540フィート(4738メートル)を登り、約22970フィート(約7003メートル)下らなくてはならない。途中、ロビンソン・フラット、ラスト・チャンス、デッドウッド、ミシガン・ブラフ、フォレスト・ヒル、フランシスコズなどのポイントを通過するが、これらの歴史的なルートの大部分は、人里離れた荒れ地を縫うように走る狭隘な山岳コースとなっている。とくにフォレスト・ヒルからフランシスコズまでのルートには細心の注意が必要だという。このエリアの大部分の道は、馬か徒歩、もしくはヘリコプターでしか近づくことができないのだ。トレイル・コースが峻険な山岳地帯や山深い森林などの最も辺鄙な場所にあり、容易には人を寄せつけない険しさが、他のエンデュランス・ルートよりも際だって困難だと言われる所以だ。

▲2003年初めてのTevis cup完走(ハル・ホールとゴール)この2頭の馬は、その後数奇な運命をたどった。蓮見が騎乗しているケーシーは2004年暮れ日本に来て、2005年夏北海道の釧路湿原で行方不明になっている。ハル・ホールの騎乗しているコロナは2005年夏、誰かに毒殺された。犯人はいまだに捕まっていない。
▲初めてのシルバーバックル。今年で4個になった。「10個とる」とアメリカのTVインタビューで答えてしまった。
▲2004年フォレスト・ヒル到着時の蓮見(2回目となり、かなり余裕のある表情だ。)馬はベイダル。
▲2004年ロビンソンフラットで蓮見のクルー
▲2004年ハルは怪我をして出場断念。アンが代理でボーガスに騎乗して参加。ハルが真剣にアンに指示を出している光景。フォレスト・ヒルで
▲2004年ロビンソン・フラットに到着した蓮見。顔は真っ黒、タイツは破れている。
▲2005年Tevis cup 念願のクーガーロックに初めて挑戦できた。ここは早くスター トしなければ挑戦できない。
▲2005年カメオとのゴール。

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